世紀の支部長
前伊藤支部長時代から始った中小企業印刷振興運動を引続いて、工場巡回指導、技術指導、経営合理化講習、技能コンクール、優良従業員表彰式、慰安大会に、新たに野球大会、写真コンクールを追加して盛大に開催した。野球大会の優勝旗は私が新村支部長に頼んで作ってもらいました。
筆頭支部の先輩
新村様が常に言われたのは、 千代田支部は本部の筆頭支部であり他に先鞭をつける事業を行うべきだとの事です。向喜久雄氏 (初代健保理事長)と図って東京印刷健康組合をつくり四十八事業所の加入で設立された。 初千代田支部の加入者は、新村印刷、集美堂、杉田屋印刷、加藤文明社、中村印刷、吉田印刷文唱堂、三松堂、三英印刷ほかであった。 東京から全国印刷工業健康保険組合に発展したわけですから歴史的です。
新村様は、このほかご承知の通り、日本印刷技術協会、 千代田厚生事業協同組合など、近代化事業を推進した大立役者です。
全印工連会長の力量
昭和30年4月15日は東京都印刷工業調整組合が設立され、 新村様は副理事長に就任した。
昭和41年4月1日東京印刷工業組合理事長に就任し続いて全国印刷工業組合会長に推され、私はカバン持ちとして副理事長に推された。 新村理事長は即座に三本柱の基本方針を樹立し発表した。
一、印刷業が産業の中で、 より重要な地位を占めるよう努力する。(業界のレベルアップ)
一、きめ細い運営に努力する。 (支部運営のための地区協議会開催)
一、大企業、地方業界及び関連業界との間でつとめて話し合いの場を持ち、共存共栄に努力する。
昭和42年2月6日、社団法人日本印刷技術協会会長に就任、昭和47年5月千代田区工業団体連合会会長に 就任など数多くの重要な役職に就かれて輝かしい業績を残された。
機顔
新柑様は長身の美男子、歌舞使でいうと花形役者で、舞台ではないが回りがパッと明るくなる存在で あった。私は今後とも業界において、新村様のような華やかな大人物は出ないと思いますが、いかがでしょう。
全国統一の行脚
千代田支部が応援して東京都印刷工業組合理事長に推され、 全国印刷工業連合会の会長となって 業界の統一をはかった事は偉大な功績です。全国地方への行脚は、本部三本柱の基本を説明しながら地方組合の協力と理解を求めるものでした。
当時は東西のライバル意識がより以上に強烈であったが、持前の度胸と和合の精神で平定したのです。 私もカバン持ちとして一期二年間ご厄介になったのですが、新村様から受けた有形無形の恩恵は終生の喜びであります。 全国組織 の東日本、西日本委員会での任務が終ったあと、旅行好きの新村様は伊坂一夫様、井上計様、塚田益男様、私を連れ地方の名所旧蹟を見物する計画を立てて清遊しました。まだ見知らぬ所を訪れることができたり、その土地の山海珍味を満喫した楽しさは格別でした。
社会奉仕
私は個人的にも、新村様が神田三崎町に昭和30年1月羅災まで住んでおられたので、事業家として社会 人として立派な人物であったことをよく存じております。片瀬く江の島)の自宅から三崎町へ毎朝出勤前に、 必ず氏神三時神社に参拝し帰りも息災を感謝する参拝をされ、社殿の御帳台、石龍、白犬などを 南大内されています。私が三崎町町会長のとき、町会に永代町会費に充当するよう新村基金として寄付していただきました。 信託の預金利息をもって必要な場合にあてています。そのほか浅草寺奨学盗資金、千代田区社会福祉協議 会など多額の社会奉仕をされました。
業界においても本部、支部の事業に寄全されるのは、既におわかりの事ですが、昭和五十三年四月には 千代田印刷人新世会にも多額の基金の寄贈をうけ、後継者育成に力を注がれました。
浮世の達人
銀行員から印刷人に大成した新村様が、京阪神で過した歳月は、情緒に溢れた茶屋遊び食道楽の満足感を十二分に味わったことでしよう。” 新村はん、ようお越しやす”と芸妓、舞妓に囲れた男振りが 想像されます。先年、印刷千代田会旅行の折、京都祇園、 一力での宴会は忘れることのできない想い出で、 雪洞のほのかな灯に浮かぶ地唄に舞う舞妓の優雅な情景に唯々うっとりといたしました。不粋な私にとって強く脳理に焼きついています。
次の事は皆様ぜひ覚えておいて下さい。芸者がお座敷で踊るとき、 献酬で出てる者は元の席に戻るようきつく教えられた。僅かな時間でも毎日の稽古を一席で披露するのだから、行儀よく見るべきだと言われる のは、芸術を尊重する心持からだと推察します。然し驚くことは娘さん方の名前をよく覚えており、どこの
料亭でも名指しです。 事に関して記憶力が抜群なんでしょうね。 また、料亭の会席料理を残した場合、折詰にしてお土産に下さった。金持でも物を無駄にしなかったし、 他を喜ばせる金の使い方をした粋人でした。お座敷では『ああいた浮いた』というさわぎの芸者踊りを所望しました。
最後に、新村様と市村元像様の長唄勧進帳で、私が下手な声色をつとめたのも一生の想い出です。
新村一座といわれました。
余談1
今年(平成元年9月12日)も例年通り第23回『敬老の集い』が明治神宮に於て行われました。
満77オ以上二八六名の業界長寿者が招待された。私も本部の相談役としてお祝に出席しておりましたが、 今年から新入りとして祝福を受けました。本殿で参拝のあと集合写真を撮り、祝宴は参集殿で催されて席上、井上計議負から、敬老の集いは昭和42年度から新村理事長の発案により行われ今日に続いておると 述べた。自慢じゃありませんが、私が理事長に提言したのです。これは内緒の話です。
余談 2
辰年生れの(月治25年10月11日生)新村長次郎様一回り下の山岸康様が、新村様と親しい支部の顧問、相談役、印刷千代田会、業界新聞の諸氏等と年一回、暑気払いを兼ねた一席を設けて、お互の 健康を喜び語り会う会をつくりたいの発案によって、人徳を慕う余り『長さん会』と名付けられた。 世話役は山岸嵐、 市村元像、中村正男の三氏がつとめた。
昭和56年7月9日は『神田川』に於て、新村長次郎様の遺徳を偲ぶ会を催したが、この第5回例 以て残念ながら、新村重晴様のご了解を得て終結した。
余談3
問花楼の名女将を偲ぶ会
新村様の粋な計らいで、 開花枝女将、清水つね様の偲ぶ会を昭和48年 12月12日開花楼に於て開きました。
発起人は新村長次郎、 伊藤哲治、 塚田益男、 中村正男の四名で、支部の皆様にご案内したところ、心意気に感じて多数の皆様が出席され、 在りし日の面影を楽しく偲びました。(開花樹は廃業しました)
当日の通知文を紹介します。
開花樹は明治の初めから、 料亭として” 東京名所図絵会” の古記にも 載っていますが、眺望が絶佳で名士が遊んだと聞いております。 わが業界でも神田の先人が開花で芸者を侍らせ、盃を傾けながら和気投合し、業界発展のため 大いに談たといいます。 その縁りの中で、開花の女将は折目正しい明治の気骨を心から示し、印刷人に対する好意を最後まで持ち続けた失気の女保でした。生前には玄関でキチンと正座して、 どの客でも心から迎える律儀さ、 病床ニケ月一週間の内二回は髪を統き上げさせた身みの良さ病床のやつれを人に見せたくない 面影の誇り、明治の女性として情感の美しさを、ほのぼのと感じさせます(以下略) 席には講武所芸者が総出で、艶やかな内にも清々しい追悼会でした。この時も新村大尽は会員に心付けをして通人振りを発揮しました。 詳しい事を知りたい方は『新村長次郎 新村印刷小史』並びに『素顔 新村長次郎』の刊行本をご高覧ください。
市村駒之助様( 長野県出身)
14才のときから写真製版業界に入り、昭和26年12月市村原色版印刷を設立し、 全日本写真製版工業会初代の会長になった。
原色版の大家として(会社では従業員から先生と呼ばれていた)人格識見から いっても、多くの公職をつとめられ、特に業界から昭和34年6月23日千代田区長に推されたのは初めてのことでしたが、惜しくも半年で病のため辞任しました。 私が昭和32年頃、肝臓病で倒れ三ケ月休養した時、神田防犯協会副会長辞任 の話が出たけれど、 顧問市村様の鶴の三戸でおさまった。
これは千代田区の大御所としての貫献と実力を示したものです。
ひまができると囲碁を指していました。容貌はお孫様に当たる現第6地区長 市村元宏様を拡大すればそっくりです。
今井直一様 (東京都出身)
三省堂社長の画家
大正8年東京美術学校製版科を卒業して米国でグラビャ·プロセス製版の 研究を続け、ベントン刻機の技術を習得して、昭和H年8月9三省堂に技師と して入社し早後社長に就任した。絵画は創元会展に入選した腕前でした。 支部として昭和31年5月9日 上野精義軒に於て『今井直一氏入選祝賀会』を催した。
大島秀一様 (新潟県出身)
『主婦と生活』発刊
大正10年6月千代田区西神田で太陽印刷合名会社を設立し、昭和10年4月 給合印刷として太陽印刷工業®攻称し社長に就任、昭和21年2月 の主婦と生活社を割立して『主婦と生活』を発刊されました。
また政治家として出身地新潟県より衆院議員に立候補し三回当選した。
日本電子製版の設立
ここで忘れてならないのは、昭和37年P、D、カラースキャナー機の導入を 大手との対抗上、中小 EN反業者が一九となって、画期的な部分協業として 技術革新に取組んだことです。特に能登プロセスの淫田博保様との陽成社 唐沢喜文様は、関係官庁との交渉、全国の業者に導入主旨の月と協力を 求めて東奔西走した功労者です。
カラースキャナー根の導入によって熟練を要した色分解作業(例えば4色)が 同時に35分(当時)で出来る技術革新と共に大手四者の技術、商取引の競合に 対抗できた事です。然しながら米国両社との賃貸情契約投入資金の拡大など 苦難の連続でした。 日本電子製版のが実容動5ヶ年間における業界への生産提供は大きかったと思います。時代は進みコンパクト型の概種が開発改良され、一企業でも設置できる ことになったので一応目的を果し昭和043年9月解散した。代表精算人は生死を越え 店した深田博保様がっとめ試意をもって処理した。この日本電子製版のの 初代社長に就任したのが、当時通産政務次官の大島秀一様でした。 PDIについては能登プロセス薄田博保様におきき下さい。
杉田弥太郎様(東京都出身)
変気な機紙破り
大正5年9月杉田屋印刷所として創業、昭和19年4月杉田屋印刷に改組し社長に就く。物町の旦那と言われ、小柄だが大胆不敵の横浜破り、気風の良さは 新村長次郎様と双壁だった。親分肌ですから、『オイッ中村、 河岸(英地)へ寿司を 食べに行こうと訴われたり、向島、四谷荒木町へと度々声をかけられご馳走に なった。 お若い時からハーレー、インディアンなどオートバイを駆使して商売をした猛者と うかがってます。支部長遠出にしても発言力が強く、正しく枢密院の元老として羽振りを利かした。
日の出会の発会
昭和29年4月1日熱海起雲閣に於て、大型機械買会『日の出会の発会式が間かれ会長に推せんされた。副会長の勝田 茂様、 間業平吉様と共に業界の 三羽烏として勇名を再かした。杉田様と勝田様が本部の監査役になったとき 財政の支出について改革を行なった。敬遠した杉田様を監査に私が推せんした のです。昭和35年2月16日東条会館に於て、千代田活版会が発足し杉田様が代表となった。
横顔
自宅は湯可原理想のみかん畑がある高ム口で悠々自達、園芸、約の趣味を 楽しんでおられたが、静かな内に蓄積された気概を東京で一気に発散したのに違い ないと思います。お気であったけれど、案外さびしがり屋だったのかも知れません。
余談
故杉田弥太郎氏を聞ぶ会
昭和44年6月16日明神下花家に於て、発起人田中収蔵、額賀秀、下谷修久 場田益男、中村正男、矢部富三、山本四郎、吉川克雄の諸氏によって催された。 通知は以下の通りです。(前略)さて千代田支部顧問として、皆様にご厚情を 島りました杉田屋印刷刷の社長杉田弥太郎氏が亡くなられて早や六年になります。 歳月日 に導しと申しますが、もうそんなに月日が経つのかと感無量の気もいたします。
そこで、生前故人にご厚誼を賜りました支部有志の方々のご賛成を得まして、 『政杉田弥太郎氏を得ぶ集い』を左記の通り開催する準備を進めて参りました。 新しい時代の先達として常に発展を続けるわれわれ支部の土壌の中には 先輩を学びその俊業を受け継いで行く美しい伝統がございますが、今後ともその 美しい習しを絶やさめためにも、このような催しは一つの意善を持つものではない。 かと考えた次第でございます(後略)