東京都印刷工業組合 千代田支部

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千代田支部について ABOUT CHIYODA BRANCH

中村 正男

中村 正男
東京都印刷工業協同組合
千代田支部長 中村 正男様
明治45年3月27日生
所属 瀞中村印刷所

新米の支部長

いよいよ私白身のにとになり書き難いわけですが、ありのままに述べさせていただきます。 前支部長長次郎種は不世出の大人物でしたから、そのあとを担ぐのはぬに恐れ多いことでしたが、 けの大先輩から後連にるとのご意向なので、先ず手始めに私が強ばれたと思います。 はじめての事でこの大9には内心ためらいましたが、前の指石と覚情してお受けした次第です。

価格制限と設備制限

当時、中小企業安定法の施行による 組合設立への推進があり、組合加入増加のため所付と一緒に事業所を 現、百円の会費だと言って加入して責いました。調整組合は昭和30年6月11日に 認可されたが、価格制限と の二本立ては全国的に難問でした。

支部厚生事業

千代田支部においてもや り に明け尋れたわけですがここで気分の転授割はかりつ厚生面において活気づけようと支部長の山国県益様に先導者なってもらい、卓球、野球、水泳大会を 問て、経営者、に業負の労働意欲を換起すべく繋めました。 特に塔田益男権には東大グランドを借用して買い、野球チームの コーチから球面で活していただいた。試合は休日に行の ですから、塚田様には午前中はあ刊をやり午後から旅行に 出かけるというようなしさでした。
その当時はユニホームがさまざまでしたから でした。 スパイクは無害ですから運動靴か視足でした。

物故者慰霊祭

昭和の年の戦地から十年を迎えた機に、千代田区業界物故者 武県を行うことになり、上野覚水寺に於てご遠族をお接さして、 新かに五十人柱の霊位を駐め遺体を使んだ。
この日、印刷工業会の山田三郎大会長、北川武之輔会長、大日本印刷佐久間長吾郎会長をはじめ 東 の役員支部直140名が参列した。以後10年毎に時の支部長によって行われることになった。 千代田支部は理人格を、先人先輩を数落する精神は連線として不動です。

支部の仕事

本部の仕事としては副理事長はじめ、多くの役を兼任したが、当時として の部会組を 全支部に広め、一広の日的を果したのは思い出の一つです。初代田久男会長のとき運営委員長を つとめ、そのあと になったのですが、部会の運営については副部会長として塚田益男様にご指導 ご支援をいただいた。

余談

昭和41年に新村長次郎様が東印工組理事長をお引受けになった時、副理事長には伊坂一夫氏、。 井上 氏の実力者に就任をされたのは当然ですが、青天の 竜、私にもためるよう命一下 でした。今でもゾットするくらい布かったですね。新村様のお供をして、伊坂様を富士見町東京大神宮の 院のニューハウス社に訪問した。副理事長の就任用を得て 車に乗ろうとしたとき中村さん。 ぜひ副理事長になって私を助けてほしいと言われ、私としては思いがけぬ要 に唯々常くばかりでした。 『無力の私をお引立ていただくのは有難いが、重要な役はその任ではないと即に答えたら、 新村様は血相を変えて”あなたが引受けなければ私は理事長をやめる”と物潰い付きで脱まれた。 (一生のうち、こんな怖い顔を見たことがない) 大知に針が見込まれて立ち砕んだように面蒼白と なって二の句がつげなかった。私は兄で経営している会社だから、相談してからご返事をするとの ことで解放されたがほんとうに恐しかったので身体が震えた。

余談

顧問団から支部長に推薦された日、一杯飲みながら杉田太郎様と新村長次郎様が単論をはじめ、 おだやかでない場面になった。私もカッとして、『後輩の私を支部長に推薦してきながら、前問同まが 辞トしてはつとまらない。辞める” と吹を切ったのです。お二人は 喧嘩友達だから直ぐ和解するのですが、 まあまあというわけで神保町菊水から 神楽坂喜久川まで乗込んでチョンチョンと手権めになった次第です。 問佐野第一種が副支部長の坂口者三種に中村君があんなに次唱を切ったけれど、大丈夫かねと 言ったところ『すぐ直って忘れますよ』と答えたのをあとできました。

『前間団』

私が支部長に推された当時千代田支部ぐらい大物のがいたのは他支部には見られませんでした。 また転密院的な存在でもあった。顧問団の顔ぶれを紹介しましょう。

加藤保様(新潟県出身)

印刷文化人

印文化人として軍隊と警察で鍛えた士魂と厳格な規律をもって、事業を発展した偉大な人物です。
大正3年神田三崎町文明社印刷所を創業、現在の稼合E印刷会社に発展 されました。加藤は大局の立場から支部の発展に尽されて、組合の役には 就かれなかったが、千代田印刷会館建設の基礎をつくられた恩人として、 伊藤集様新村長次郎様と共に、 頭彰の胸像画(レリーフ)が会館に設置されてあります。

横顔

加藤保様は立派な髪をはやして感職があり、ステッキを手にしておったので 下のようでした。軍人、役人の経歴からいっても領かれると思います。会合の 酒席にはほとんど姿を見せませんでしたが酒の多い顧問団の中でも珍しい 存在でした。
頑健なお身体でしたから、会社へは語98時までに自宅の保土ヶ谷から必ず 出社されており、運味としての乗馬、剣適は得意だったし、やはり士族の家庭で 育った風格なのでしようか・・
時々お電話をいただき、『いつも業界と支部のためご苦労さま、大いに電張ってくれ 給え』と元気な声で励まされたことが思い出されます。

余談

私の生まれた神田三崎町は、むかし三崎三座といわれた東京座、川上座 《改良座)、三時中日劇場)の芝居小屋があった開拓地の講武所(軍事教練場) のあとでした。東京座は東京市五大劇場の一つとして歌舞使座、明明治座と並び 称された大芝居(大劇場)で、現在の日冷(三崎町三ノ三)の在る所です。 三時は現在の日大法学部(三崎町二の十三時神社通り)の所だったが、 女役者の芝居小屋として賑わい、後年神田劇場となり連損劇や明ろい映画館として、 場内を明るくして黒いスクリーンに映写されたので珍しいかった。亡父、中村勝蔵が 印刷業を開始したのが神田劇場の一角でした。オッペケペー節で鳴らした壮士劇の 川上音二郎の創立したのが川上座で、奇しくも現在の加藤文明社の場所である。 ビル建設のとき、高組が工事中の提消リに当って、芝居の糸口にあるり舞台の コンクリートがあらわれた。現在ではすべてが電気仕掛ですが、昔のり舞台は 道具係が大勢でぐるぐる知したものです。 私も確認したいので大阪の 本社に 問合せ、現場写真の有無を確認したが残念ながら無かった。加保様の伝記に ついては『加藤文明社六十五年史』をご愛送わがいます。

佐野真一様 (福井県出身)

シベリア帰りの前間

佐野様はシベリア抑留から帰還して昭和印刷の社長になった。凍傷で右手が不白由であったが、酒要での唄は白頭山節が得意でした。 千代田支部は早くから役員として活躍し、写田十五郎支部長のとき 副支部長をつとめ加藤真大郎支部長のときは顧問になられた。
佐野様は派手な存在ではなかったが、重厚で頼り甲斐のある大人物でした。地元神保町一丁目町会のとして町会運営の指導に当たり、礼の時は 神岡の先顔に立って元気な姿を見せておったのはなつかしい思い出です。

吉川秌雄様 (埼玉県出身)

いつも笑情を絶やさぬ大僧正の風格で、さらりと人の道を説く温和な方でした。

本部支部役職

役職として東京紙工振県会印刷部会博田十五郎支部長のとき副支部長をつとめ、 東京都印刷協同組合本部の常務理事になった(高情与作理事長)、支部の顧問としても、円満なご性格で人と争わず重鎮としての存在でした。
社会人としてはプロの写真家で、 同田紅陽先生の門下となり、富士山の忍野で四季の富士山を撮影しておったのは有名です。印刷千代田会旅行の節は、 吉川様の撮した集合写真が傑作として保存されています。千代田印刷会館会議室にも富士山の写真が掲げてあります。また、稀小価値の琵琶を得意として 特別の場合に演じました。記』は条の木をくり抜いた単純な楽器だが、複雑な音色は勇壮で哀調を帯び難しい作があると聞きました。 詳細は文京支部の利根川政次穂にお問合せ下さい。

中田末男様(東京都出身)

支部長から年全基全、全印健保理事長

戦後、東京都印刷業統制組合の組間として、神田が第二支部であり第一支部は麹町、四谷、麻布、赤坂の区城で、 中田様が第支部長であった。中田様がよく言われることは、 『私だって麹町の支部長をつとめたんですよ、千代田には 元から嫁が深いのです弱田十五郎支部長のとき顧問に推されている。 昭和21年ダイヤモンド印刷の社長に就任し、昭和26年成旺印刷を創立して社長に就く、俊英な中田は若くして組合関係には幅広い役を持ち、大手の 仲間入りをして業界発展に敏腕を振るった。特に東京印刷」工業厚生年金基金は、初代田命久男様の逝去によって当時の全国連理事長中村神様が一時兼任しましたが昭和52年9月中田様が三代目に就任しました。 和59年6月全国の信工業健康保健組合理事長に就任、向害久雄様、中村神様 に次いで三代目です。

横顔

中田様は歌舞伎の十七世中村勘三郎のような男振り、歌沢、小頃のプロ級で、どのお座敷でも芸者に引張られる粋な人物です。天性と申しましょうか、歯れまれ する名門子です。印刷小唄会は吉田浜一郎様のあとを社き現在会長をつとめています。
顧問として清水長晃埼田十五郎、加績太郎、伊藤 集、新村長次郎の諸氏 につきましては上記支部長列伝に記しました。

谷本正様、 (大阪府出身)

青年時代

大正9年4月大阪の千代田オフセット印刷に就職、13年6月同社の上海工場へ25才の身で工場長代理として出張、旅を振って中国人百数十名を活したの だからい。昭和2年10分し同4年3月に退社、こわれて芝の愛宕印刷に支配人として経営難を立て直し、優良会社に再建した。彼の図書印刷であり工場長として一年半在職した。

開成印刷別立

昭和20年12月小林印工業のに入社したあと、再建の間成E印刷ゆさ割立し 務から社長に就さ現在は会長です。同社はご存じの通り辞典印刷の専門で、 大手に匹敵する技術で名を馳せたオフセット両面刷機は小西E印 械のに対し、 印刷専門技術を生かしての工作指導に協力して完成させたのである。 もちろん谷本様の想眼勢力による所ですが、思師市田幸四郎様、先輩安通信様 の意面と指導が大きく 影響したのではないかと推察いたします。

本部支部の役職

役職としては塚田十五郎支部長のとき幹事となり、東印工組の常務理事各種の素長を歴任、特に東印協組常務理事、広報員長として、印刷道義の高揚と印刷人の品位保持、社会的地位向上を目指す”印刷人綱領”を制定したことことです。東印調組向理事長が昭和36年辞任のあと、浅野副理事長代行のとき昇格して理事長になった。
論客・谷本様のように業界のため積極的発言をしたり、施策の推進をはかったのは数少ない功労者だと思う。全印工連から印刷振興賞をもらったけれど、 国家褒章や叙勲は当然受けるべき人物ではないでしょうか。
谷本様は私より一回上の子歳で、頑住な身体の持主で頭脳がはっきりして記憶力は抜群です。すべてにおいて目標として敬慕しています。印刷図書館の企画で史談会が開かれる度に乞われて、業界の歴史を話されるのだが記憶が正しいのには驚嘆いたします。

協会奉仕

大正15年4月4日イースターの日に、上海日本人キリスト協会で洗礼を受けたクリスチャンでもあります。昭和25年目本国際ギデオン協会を設立、基督教精神の伝道に努め会長に選ばれた3年間の実績は、協会本部事務所を静岡に開設した。また、福音宣伝のため聖書を全国的に増呈する努力を積み重ねられました。信仰歴と教会建設の力については、谷本、正著、『今あるは神の恵(わたしの 歩んだ信仰の道)』をご愛読ください。

余談

谷本は酒を多く嗜なまない君子だが、傑作な演技がある。もう二度と演じることがないでしょう。ソフト帽を逆さにかぶり幕を持ち、煙草を二本鼻につめて鴨緑江節 (朝鮮(韓国)と支那(中国)と境のアノ鴨緑江·…と唄う)に合せて踊る仕種は愉快だった。羽振りのよかった上海時代の貴い遺物でしょうか。

顧問 井関好彦様(青森県出身)

鎌倉町にあった明治印刷の社長をつとめ料理の権威者であり、戦時中8社合同の大同印刷を設立し社長に就任、8社は明治印刷、オーム社、下谷印刷、三美印刷、同実印刷、中村印刷、沢田印刷、金子製本です。
役職も清水長晃支部長のとき顧問であり、戦前は印刷文化協会神田の活版分科会の第二部長をつとめた。印刷文化協会とは戦時中、経済新体制確立要綱に基いて、印刷資材の一元的配給統制機関でした。そして神田同友会の生みの親でした。

顧問 山田一雄様(東京都出身)

大正12年東京活版所(精興社)に入社し、後に大化堂を経営されて昭和27年精興社の社長に就く、塚田十五郎支部長のとき副支部長をつとめた。支部印刷会館建、印刷技能者養成所の設立に協力を惜しまなかった。
山田様は一見して円満な言葉少い温厚な人物でした。昭和40年1月25日青梅市天寧寺に於て、白井赫太郎会長の葬儀で、委員長としてあいさつ中に急逝されたのは劇的な悲しい思い出です。