東京都印刷工業組合 千代田支部

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千代田支部について ABOUT CHIYODA BRANCH

塚田 益男

塚田 益男
東京都印刷工業組合
千代田支部長 塚田 益男様
昭和2年6月30日生
所属 (株)錦明印刷

昭和生れの支部長

大正の矢部支部長から一足飛びに、昭和生れの塚田様が35才の若さで支部長になった。
谷本正様の『ブラボー塚田益男君』を再掲いたします。塚田君は次代を継ぐわが支部のホープとして、早くから嘱望されていた第一人者である。同君の父君は人も知る塚田十五郎氏で、終戦後の混乱期によく老躯に鞭打って、獅子奮迅の働きをなされた名支部長である。その御曹司が最高学府を出て父業を社ぎ、 益々家業に精を出されている傍ら、過去四年(二期)にわたり支部長(中村、 矢部)をたすけ会計の重責を見事に果した。
支部財源の基盤を安泰に置かれた功績は大きい(中略)ブラボー、塚田益男君・・ご健闘を祈る。
千代田支部の若送り、他支部に反響を示し本部に活力をもたらした。

支部長の事業

先ず支部の事業として手がけたのが、共通の経済事業と労務管理の一環として、従業員の健康保持食生活の安定の面から取り上げたのが給食事業の計画だった。ベテランの山岸 最様、山本四郎様の協力を得て、作業所の施設と給食問始が促進された。昭和24年9月千代田印刷工業栄養食配給組合設立された。昭和42年7月千代田厚生事業協同組合と改行され、現在は山岸理事長の後を塚田様が継いでいる。給食数確保のために新村印刷へお願いに行ったとき、当時新村長次郎社長が、会社でも給食の準備をするところだったが、支部のために加入するという快諾を得たので、新村様のご厚意には 感謝感激だったとうかがいました。何しろ給食数が200食ふえるのですから大変助かったわけです。塚田様は支部から本部の各要戦を歴任、旺盛な意欲と業界の将来を荷う積権りな行動は目覚しかった。

近代化、構造改善

今更申すまでもなく、ミスター近代化と称されたのは、業界の近代化、近促法から構造改善へと体質改革の原動力となって活躍したことです。東京はじめ全国の組合員に近代化計画、構造改善計画の説明、通産省、中小企業庁との折衝と、若さのエネルギーを投入した努力は大変なご苦労だったと思います。

日本印刷技術協会

ミスター技協と称されたのは、昭和42年2月12日社団法人日本印刷技術協会の設立です。この完成に至るまでの経緯は安易ではなく、日本印刷共同研究会、印刷製版教育センター (写真製版教育センター)の一本化を図って誕生したわけです。然し土地の獲得、印刷製版の設備など資金の調連には国難の連続でしたが、塚田様は全国行脚して印刷製版業界の将来を訴え、三拝九拝して悲壮な覚悟で募金活動をしたのです。後援者は新村長次郎様、白井倉之助様、宮城荘三郎様ほか賛助有志の皆様ですが、新村様が会長に就任し塚田様が専務理事となって事業の運営に当たったわけです。ほんとうに涙ぐましいというか、身体を張っての勝負挑んだ胆力と忍耐力には敬服のほかはありません。

国際技術指導

天はわが印刷業界にこの麒麟児を救世主として与えて下さったに違いなく、神に感謝します。今や国際人となって、中国、韓国、パキスタン、東南アジアの技術指導を行っている。昭和61年にはタイ国クラウンオブタイランド五等勲章を授与され、印刷人として外国の動章は初めてであると思います。私共夫婦も技術協会研修旅行で中国へ参加させていただいたが、中国関係者の歓迎接待が丁重で観切であったのは、塚田会長のお陰であった。

機顔

塚田様の自己評は『一面出しゃばりで理屈屋、鼻柱の強そうに見えることもありますが、本心はそうではありません。自分が人生処として常に考えていることは、自分の義務だけをコツコツと果す人に、知られない市井の人でありたい』
先代写田十五郎様の病床で親が子に対する胸中をし、白ら進んで印刷業に取り組む事を誓った益男様、 その手をしっかり握った気の十五郎様が、嬉し涙をポロポロ流したという佳話があります。
いつもスマートな塚田様、硬軟両派の二筋道を行き、酒は飲むべし、飲まるるべからず、女をも愛せよ、得意の手品は内外七も称賛を浴びているが、十八番のあんま抹みは秘芸です。ただし歌はダメです。 多彩な逸話もありますが割愛します。
平成2年4月東印工組総代会に於て塚田益男様が理事長に推せんされ、従って全印工連の会長に就任する予定です。新村重晴様に続いて千代田支部から選出されることは栄誉なことです。塚田様は日本印刷技術協会会長の大任を果たされて後任に譲りました。