東京都印刷工業組合 千代田支部

MENU
千代田支部について ABOUT CHIYODA BRANCH

下谷 修久

下谷 修久
東京都印刷工業組合
千代田支部長 下谷 修久様
明治44年3月24日生
所属 (株)千修

待望の支部長就任

早くから再三再四の展望を固辞されておった下谷様が、支部長にようやく就任したので、千代田支部も 安定した感じがいたしました。私も懇請した一人として当時を思い出します。雪のあがった朝、使命を 業びて会社を訪問した私はじゅんじゅんと意のあるところを、真心をこめて話しました。業界人、社会人としての責務であり、会社業績の発展と相まって令自芯結婚もあったし、『世界は一つ東京オリンピック』の年代の支部長としての千載一遇であることを力説しました。お世辞や押しつけを排しお互いに腹から信頼し善意をもって話し合いました。
下谷様としては副支部長の経験もないし、幹事で出ておったけれど内情がよく分からなかったし本部との付き合いもなかったから、固辞されてきたと思います。ある先輩から『さすがに君が口説いただけあって、スケールが大きく立派だ』と賞賛してくれた時は嬉しかったですね。

支部事業(千代田印刷センター)

先ず支部運営に当たって、新組織のもと地区再編をはかり強力な布陣を整えたことです。第一弾は千代田印刷センターの発足です。自社の仕事が忙しい時は助けてもらい、他社が忙しい時は手助けをするという、仕事のやりくりグループが作業量の調節機関として、昭和39年10月26日に設立された。下谷支部長が運営委員長に選ばれた。伊藤 集顧問は『いざという時の救急車としてセンターが生まれたことは大変に心強いことである』と激励した。
第二弾は栄光の歴史を綴る千代田支部史を作成することで、資料収集に取組んだのです。引継いだ次の梶原忠幸支部長のとき支部史が完成し、その後新村重晴支部長のとき50年史が刊行されました。
毎月発行されてる支部ニュース77号の座談会『二世の立場、その考え方、社長に望む…。私が社長になったら、78号の二世を見守る暖い目、初代各氏の二世観と期待』この二面にわたる記事は、率直な意見が出されて圧巻でした。

横顔 本部広報委員長

下谷様はいつもおだやかな語り口で人に接し、内に秘めた企業の計画性はすばらしい持主です。敏腕を振るって支部の特異性を生かし、本部にあっては特に新村長次郎理事長のとき、常務理事とて広報委員長をつとめ真価を発揮しました。会社においても企業の業は抜群ですが、スポーツも野球、卓球大会に於て常に上位を占め優勝することもしばしばでした。

チャリティコンサート社会奉仕

企業利益を追求するのは当然ですが、下谷様は大企業がやるべき社会還元を自らの手で立証し、世の中の為に貢献してるのは、業界の地位向上でもあるし、一般の理解を深める一大行事であり敬服の外はありません。ご承知の通り、千修吹奏楽団として毎年『目の不自由な人に光を』チャリティーコンサート を主催し、財団法人読売光と愛の事業団、東京都吹奏楽連盟後援のもとに、盛大に行われています。もう柑回を数えると思います。全印工連から印刷特別賞が贈られました。

連装の弔事

下谷様が支部長在任中に起った弔事は、余りにも劇的でショックでした。精興社会長白井赫太郎様の葬儀場、青梅市天寧寺にて、山竺雄社長様が葬儀委員長として挨拶中に急逝されたことです。また顧問今井直一様(昭和38・5・15) 間杉田弥太郎様(昭和39・7・26)顧問大島秀様(昭和40・4・8)が、 任期の間に相次いで近去されたのは、偶然ながら大いに心痛された事と推察いたします。

機顔

最近は健康のため酒はやめられてますが、好きな方でした。実席では思いもよらぬ余興を発表して驚かされたものです。退任総会の総会で素華余県として、ご存知白浪五人男とおてもやんが演じられたのは愉快でした。茶屋遊びも結構よかったとか。お生まれも銚子の波崎とあっては、活きがいいわけですね。