東京都印刷工業組合 千代田支部

MENU
千代田支部について ABOUT CHIYODA BRANCH

下谷 隆之

下谷 隆之
東京都印刷工業組合
千代田支部長 下谷 隆之様
昭和11年8月14日生
所属(株)千修

アイデアマン支部長

支部長就任にあたって『プラスワンの千代田支部を、明日に向かってコミュニケーションの輪』をスローガンに掲げた。

第四回物故者慰霊祭

昭和61年11月8日寛永寺に於て、第四回物故者慰霊祭を遺族、来賓、支部員150名が出席して、149霊位に対し慎んで追憶の意を表した。

支部員の集い

昭和62年12月9日神田明神会館において、従来の合同地区懇談会を改め『支部員の集い』として開催された。会の一部は講演、二部は漫談を中心に新した内容で大成功をおさめた。下谷支部長の新企画に琵琶の参加とは新記録であり、爆発的な盛況となった。これはホントに驚きでした。

規定一部改定

昭和62年4月には支部運営規定の一部(慶弔規定)の改定案が決定された。

第二回支部員の集い

昭和62年12月2日神田明神会館において第二回『支部員の集い』が開かれたが、前回より多い106名の参加で満員の大盛況だった。

8地区制に改編

支部地区を9地区制から8地区制に改正し、従前の9地区11社に対しては1~8地区の中に所属してもらうことに、全体役員会で了承を得て実施した。

支部ニュース横組に

支部ニュース213号から横組となり、216号、222号は鮮やかなカラー写真になったのも楽しみでした。

横顔

負けず嫌いで、おしゃれの下谷様、余りにも華やか活動にアットいう間の2年が過ぎ、遺憾なくアイデアマンの本領を発揮したわけですが、執行部皆様もさぞかし格別に忙しかったでしょう。全力投入には感謝の外はありません。何から何まで行き届いたお心遣いにはまったく感服いたします。
私が挨拶を頼まれた時でも、電話で丁重に連絡があり、支部長退任に際しても懇篤なお礼状をいただきました。
相談役で千代田支部長をつとめなかったお二人、白井倉之助様、青木勇様について紹介いたします。

精興社について

大手に匹敵し出版界に絶対の信頼を受けている名門(株)精興社の歴代白井赫太郎様、山田一雄様、白井倉之助さま、青木勇様の内で、東印工組本部、支部、全印健の役職に就かれた白井倉之助と青木勇両氏につき述べたいと思います。
既に戦後の支部顧問としてご活躍くださった山田一雄様については、顧問団のページでご紹介いたしましたのでご了承ください。

白井赫太郎初代社長

先ず初代社長白井赫太郎様の逸話を申し上げて、精興社の基本理念をご理解ねがいます。
劇評家、安藤鶴夫氏著(精興社に勤務していた)の文庫『ごぶ・ふるね』から一部を引用して紹介いたします。
『あるとき、岩波文庫の書名はうっかり忘れたが、泉鏡花の星ひとつものだったから20銭の本である。そのある頁がどういうわけだか、だいたいみんな同じだった。
その時の白井さんの怒りは凄かった。どこでもそうだが、こともあろうに岩波さんの仕事に対して何事であるかというのである。
もう夕方でそろそろ暗くなりはじめていたが、事務所に居合わせた社員が、総動員で東京に散らばったその岩波文庫を、全部買い占めることが命令された。
全部が全部岩波へは入っていなかったようで、何部かが、しかしもう書店に配本されていたから、全部買い占めて来いとの命令である。自転車が全部動員され、あとの者は歩いてその1冊の泉鏡花の文庫本を尋ねて東京中の書店に散らばって行った。これは、たしか1日や2日では済まなかったと思う。
そして買い集められてきたその岩波文庫は、1冊残らず精興社の裁断機にかけられ真二つになった。
明治人の気骨というか、商人道に徹して精興社という名を大事にしたのである。今日の精興社もこの創業精神を受け継いで優秀な技術と共に業界関係に名声を馳せている次第です。

白井倉之助様(東京都出身)

三代目社長

白井赫太郎会長 山田一雄社長の逝去の悲運を乗り越えて、42歳の身をもって社長に就任し、経理畑の才能を発揮して青木勇様と会社経営に全力を尽くした。白井様は誰からも好感を持たれ、社員の皆様にも信頼をされながら54歳11か月で急逝したのが、いかにも残念至極といいましょうか痛恨の極みでした。

組合本部支部役職

精興社の看板なれば当然のこと、印刷工業会のメンバーなわけですが、東印工組本部、支部に所属しました。白井様が千代田支部相談役になってから、本部の要職に次々と就き実力をあらわしたのですが、「私個人としては青梅の田舎から出て来て、新村長老からお引立てをいただき、伊藤顧問からも可愛がっていただきました、その意味では借金をしょってる感じですので、これから生きていく上でできるだけの協力はさせていただく積もりです」実に謙虚でお心掛けの立派な方でした。
東印工組常務理事、構造改善準備副委員長、料金適性本部副本部長、経営改善推進委員長、広報、厚生委員長、東京印刷工業校正年金基金理事、東印工組副理事長など、重要な役割の指導者となったのですが、なんの申しましても、昭和14年全印健理事として、改革期成同盟の副委員長となり、大熊委員長唐沢副委員長と共に、全国12支部を精力的に遊説のため奔走した実績は語り草です。

全印健

その後全印健副理事長になり、次期理事長に約されておりました。早朝の会社出勤から組合業務のため深夜に及ぶ過労は、真剣に取組んだ組合の仕事達成に尽くした結果ではないかと、お察し申し上げながら相済まない気持ちでいっぱいです。

情報産業政治経済研究会

次に印刷業界を挙げた参議院選学のとき、情報産業政治経済研究会という政治団体が結成されました。昭和48年秋、井上計千代田地区後援会の発会式が東条会館で行われ、白井様は推されて会長になり、率先して佐野志郎幹事長と資金の勧誘に奔走された。千代田地区が割当られた資金を完納したのは、新村長次郎範問、 白井会長、佐野幹事長のお陰です。
また選挙の後始末に、シャープペンシルの買上げについても責任上、多額を負担されたのですが、うらみごとも愚痴も言わず、平身低頭して皆様にお願いして割当てを消化したのは、円満な人格によるものとただただ敬服いたします。
最終回の印刷セールの際は白井様が全国の実行委員長をつとめ、千代田支部は10万3千枚を消化して好成績を上げ面目を施しました。
日本印刷技術協会の発足当時、資金集めに苦慮しておった塚田益男様が土地確保に際し白井様の信用で借入金ができた時は、ほんとうに助かりましたと述懐しています。

大正ダブル会

明るい話題としては、大正ダブル会を宮城荘三郎様と印刷成田講の車中でまとめ、大正10年以降の二桁会で出発したとのことです。大正12年11月3日生れの白井様は代表幹事となり、2ヶ月1回の会合と年1回の旅行会が決められた。明治と昭和の谷間にあった大正っ子の意気と団結は強固です。
いつもニコニコ突顔でパイプを口にし、日本酒が大好きでした。会社は野球大会卓球大会において団体、個人を問わず1、2位にあって千修さんと優勝を争った強力なライバルです。
白井様のお人柄を偲ぶには『白井倉之助の思い出』をご愛読ねがいます。

青木勇様 (東京都出身)

四代目社長

精興社の大戦力であり三代にわたる社長に仕えての補佐役であり、正に大黒柱でした。青木様は日頃、『私は社長でなく後継者を育てるのが役目だ』といわれておりましたが、白井倉之助社長の急逝により四代目の社長に就任した。活字に生きる苦労人と申しましょうか。精興社の青木様と言われ、出版社、取引関係からも信望の厚い親分肌であったことは周知の通りです。白井様と同じように精興社の大看板を装わず重厚の中にも温か味がある人物でした。

組合本部支部の要感

城代家老のように会社をしっかり守り、城主になっても東印工組本部、支部の役目として、専門の頁物印刷部会、出版E印刷部会の指導的立場を明確にして活躍された。特に国際組版交易(株)の社長をやむなくお引受けになり、身命を話してのご奮闘は大変なご努力でした。業界のため推牲的役割を演じたといっても過言ではありません。
昭和58年支部相談役になって、活版印刷、出版物の講演をしていただきました。がっちりした体駆に人の面倒を見るやさしさ、お若いときから修業した人間味があふれています。 青木 勇様のお人柄と苦闘史については、『青木 勇の思い出』をご愛読ねがいます。