東京都印刷工業組合 千代田支部

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千代田支部について ABOUT CHIYODA BRANCH

矢部 富三

矢部 富三
東京都印刷工業協同組合
千代田支部長 矢部 富三様
大正2年8月7日生
所属 三松堂印刷(株)

大正の支部長

明治生まれから大正の支部長になった矢部様、副支部長に大物の吉田真一郎、山岸 康、須藤源平、山本四郎、塚田益男氏の愛華陣を揃えたのは壮観であり、幾多の新機軸を打ち出てた。

新機軸の事業(支部ニュース)

先ず第一弾は、昭和32年支部ニューズの発刊である。本部施策の徹底と支部行事の情報を、支部全員に理解できるよう発刊したのは誠に意義ある仕事でした。特にこの中で、伊藤集、市村駒之助、新村長次郎、加藤魔太郎、 加藤保顧問様の創業者としてのご苦労と刻苦勉励の人生は、私ども後輩の教訓であり、この記録は実に貴重であって圧巻です。良い事を計画し後世に残していただいた先見には恐れ入ります。

千代田印刷製栄会

第二弾は、昭和33年4月24日千代田印刷規栄会を発足したことです。目的は支部員相互の親睦、納税準備貯蓄心の滴養と併せて、支部運営の充実強化を図ることにあった会員は毎月一口五千円以上の定期積金をして、緊急の場合の小口融資に充てる。これは支部独白のもので、定期預金を上回る利殖と低金利で融資を受ける一石二島の好条件が狙いであった。委員長は矢部支部長がつとめ、当会の利用も成果を挙げ10回まで続いたと思います。

積商

矢部様は一見しておだやかな女形の神士ですが、内に秘めた緻密さと闘志は、どうしてどうしてなかなかの勇士です。労働運動が盛んな頃、労働組合外部団体との交渉でも、おくれを取らぬ粘りを見せたということです。
これも先代が昭和9年に亡くなられ、24才の若さで会社を経営して今日の隆々とした三松堂印刷(株)を 発展させた底力があったわけです。としては美術工芸、絵画、書道、ゴルフ、ボウリングなど楽しんで おられますが、印刷小唄会の重要なメンバーです。支部卓球大会で個人優勝した事もあります。 ただし酒はまるっきりダメで口一杯で真赤になってしまう純情家です。

ここで、支部長にはならなかった大物を紹介しましょう。

吉田真一郎様 (東京都出身)

明治の江戸っ子

吉田様築地の一色活版所から独立して昭和14年4月8日吉田印刷所を創立、昭和21年7月12日吉田印刷の代表取締役となる、支部長問題で新村長次郎額問の要請を固辞し、激論になったことをうかがってますが、名利を求めぬ一徹さは典型的な江戸っ子です。矢部支部長のもとに、副支部長として快よく後立てになり、 新計画を提案して援助したのでもわかります。従って業界の組合関係におきましても東京印刷工業協同組合、東京都印刷工業協同組合、東京都印刷工業組合の役をつとめましたが、本格的な仕事としては、調整価格委員長として原価質出方式の啓蒙指導のため全国を遊説した活動が責任感の強さをあらわしています。 私も平版部門の担当者として、吉田委員長のお供をして札幌に出引張したのですが、 スライドをも交えて熱心な料金説明には感激しました。高潔な人格と誠実な仕事買われて主要得意先の安田火災海上保険のの美術財団設立に際し、東郷育児画伯を推挙し東町育児美術館開設の功労者となったのも素晴らしいことです。

横顔

眩いくらい美事な白髪、荘重な語り口は天下百般の風流人として魅力がありました。申すまでもなく多芸に通じ百人一首、 謡曲、 将棋、麻雀、 俳句、小唄、演劇、 スポーツ、食道楽など趣味の探さにはただただ驚くばかりです。極意の達人は決して他に誇張しませんね。長さん会(新村長次郎様の徳を慕う会)の席上、名人中田末男棟の小唄振りに村し、謹厳な吉田様が、思いもよらぬ鍋焼うどん売りの仕種を演じた至芸には、一同爆笑の中に驚嘆するばかりでした。恐らく一世一代の演技ではなかったでしょうか。亡くなるまで印刷小唄会の総師として会長をつとめられました。
これは私事ですが、勝亮結婚挟露宴のとき吉田様のご厚意により元老高橋与作様従兄黒坂欣一様とすばらしい謡曲を披露していただきました。『閑談、片々、吉田真一郎随筆集』は、 明治、大正、昭和の風俗史として必読すべき名著です。

顧問 山岸最様(福井県出身)

三秀舎社長就任

名門三秀舎の社長になったのが昭和30年5月、印刷は無経験である素人の山岸様が、社長であった実兄島 富士雄様の死去により、兄弟中で一番苦労をかけた兄上のため引受けたといわれる。そのとき50歳であった。多感な青春時代は学生運動から社会運動、労働運動を続け、消費組合、栄養食配給所設立、厚生省役人三舎社長、印刷業界の指導者となったのだから人生まことに波乱万丈である。

本部支部の役味

大物の山岸様を、矢部支部長が副支部長として迎え入れたのが端緒となって、東京都印刷工業調整組合長宗理事長のとき副理事長となり、中小企業近代化促進法の業種指定獲得運動に全力を向けられたのは、かつて政治家を志した体験からでしょう。また労働問題、福祉問題(給食事業)にを尽すことができたのは、恩師賀川豊彦先生の指導による場物と、感化による情熱の実践によるもので敬服の外はありません。

労働間題と給食組合

特に千代田支部では中小企業対策として、労務管理問題を取り上げ、労使間の対策などを勉強するため、千代田印刷労務想談会をつくった。昭和36年9月幹事長になった。また、塚田益男支部長のとき、共同炊事の必要性をすすめられて、消費生活協同組合の栄養食協同炊事事業を経験した山岸様が、早速に千代田印刷工業栄養食配合組合を設立し、昭和35年H月理事長に就任した。のち千代田厚生事業協同組合となり千代田区工業団体連合会の参加を得て事業が拡大した。とにかく給食史に残る先駆の指導者である事は不成であり、誠に偉大でありますご自分でも弁当屋ですと言われるくらいです。昭和40年8月全国給食協同組合連合会長に推されたのですが山岸様の人物と指導力が 大きく評価されたわけです。

横顔

印刷人となってから髭を剃り落し、堂々たる体駆をもって本部、支部に対し正確な論陣を張って業界の推進力となった。だが、この偉丈夫も酒はさっぱりダメで、ビールをコップにー、二杯とは… 。その分、私が頂戴してるのも事実です。 山岸居藩の『風雨強かりき』は必読書であり是非おすすめいたします。 波乱万丈の人生は興味津々です。